「レコ芸」とサヴァール
2023年07月10日 (月) 13:00 - HMV&BOOKS online - クラシック
連載 許光俊の言いたい放題 第306回

月刊誌「レコード芸術」が、今発売されている号で休刊になるという。休刊というのは言葉のあやで、休むだけなら表紙に「71年間ありがとうございました」とは記すまい。雑誌を止めるときには「廃刊」ではなく「休刊」と言うのが慣例である。だから、「レコード芸術」がまもなく「休刊」するというニュースを聞いたときには、私もちょっと驚いた。雑誌媒体はどこも苦労している。音楽之友社の経営が難しいこともとっくの昔から知られている。「レコ芸」がそれでも続いているのは、それなりに成り立っているからなのだと何となく思っていたが、そうではなかったようだ。
1980年代、つまり私が音楽の文章を書き始めたころ、音楽之友社の社員たちは鼻息が荒かったですよ。いや、それは言い過ぎ。特に力まなくても、自分たちが音楽業界のまんなかにいると、当たり前に思っていた。もちろん周囲も。メジャー・レーベル、新聞社、放送局(言うまでもなく、特にNHK)、音楽之友社、これが業界の大枠をがっちり固めていた。そんな体制が揺らぐなんて、私が20代のころにはなかなか想像できなかった。だけど今や・・・見た目重視のスター路線が続き、放送局や新聞の権威も地に落ちた。
時代は移り行く。予想もしなかったことがどんどん起きる。20代のころ読んだ本の中で、人間は自分の意志で歴史を作り出すことはできないと読んで以来、そういうことだよね、意志では作れないほど、世界は複雑だし、予想外だと何回思ったかわからない。
自明なことは、今自明なだけ。すぐれたものが後世に残るとも言えない。すぐれた人物が長生きするわけでもない。雑誌を存続させるために署名だなんて、気持ちはわかりますよ、だけど無理。むりやり蘇生させようとするようなもの。過ぎ去っていくものよ、安らかに眠れ。思い出は、残る。その思い出とて、永遠ではないが。万事に関して、それしかないんじゃないか。
あまり長く書くとややこしくなるから、ごく簡潔に。たまたま手にした無料の広告誌(と呼ぶべきなんだろうね)の「ぶらあぼ」で城所孝吉氏が「我々の趣味趣向が磨かれなくなる」と書いていた。まさにその通り。大筋では。だけど同時に、そりゃ、マニアならたぶん誰でも言いたいですよ、評論家の耳だって怪しいものだし、お金で買収されたりはしなかったのかと。けれど、個別的な話はさておき、全体的に見るなら、雑誌媒体は非常に啓蒙的で教育的(皮肉のニュアンスも混ぜたくなるけれど、今はそれはパス)だった。城所氏は「演奏の特色が言語化されなくなった時、演奏を聴き分ける能力は、確実に下がってゆく」とも記している。これまた言いたいことはわかるけれど、現実として私はそこまでは言いません。

サヴァールはモーツァルトの「レクイエム」をすでに録音していた。初めて聴いたときには、あまりの軽やかさに驚いたものだ。イギリス系の古楽みたいにリズムや音が軽いのではなく、精神が軽い(軽薄ということではない)感じに、へえと思わされた。新録音もそれは変わらない。いい演奏、いい音楽。透明感のある響きが、単なるきれいな音ということではない。劇的な部分は小編成でも十分以上の迫力、迫真性。コントラストも明快。和音ひとつで、がらりとシーンが変わる。昔の人には想像できなかった演奏だろう。
私も還暦が近づいてきた。若い時は、他人の死が何だか現実とは感じられず、だけれどもむやみとこたえたものだった。ところが気が付くと、死に慣れてしまった自分がいる。もう私がお世話になった先生方もほとんどみなこの世にいない。父親はもう死んだし、母親も遠からず死ぬ。人は必ず死ぬのだ。私だって案外早く死ぬかもしれない。存在するものは、いつか消えるのだ。カミュが書いたように、われわれはいつ「今日執行する」と告げられるかわからない死刑囚のようなものだ。そう考える現在、サヴァールの軽さやしんみりとはしても深刻にならない音楽がしっくりくる。
昔は名演奏家が死ぬとやたらにショックを受けたものだった。世界が貧しくなったように感じた。国内外のメディアも「ひとつの時代が終わった」みたいな書き方をする。だが、世界は続いていく。これを私に痛感させたのは、ヨーロッパの聴衆だった。彼らは、巨匠が没すると嘆くし、名指揮者がオペラやオーケストラのポストを退くとき、本当にもったいない、もっと続けばいいのにと言う。だが、次の週にはもう新しい演奏家に拍手を送っているのだ。クライバーやチェリビダッケやアーノンクールに熱狂した人たちも、彼らの死後に音楽を聴くのをやめたりはしなかった。そうやって歴史は続いてきたし、音楽は続いてきたのだ。
だから、私は死を過剰に嘆き悲しむことはしない。いつの時代にもいいもの、おもしろいものはありますよ。そして、新しいものが生まれているのですよ。
「レコード芸術」がなくなったらどうする? 何か新しいことをするのです。それはあなたや私、つまり今を生きている人間がするのです。

しかしですね、サヴァールの「レクイエム」のあとでチェリビダッケとミュンヘン・フィルの演奏を久々で聴いてみて、強烈な衝撃を受けた。すげえ、そうかこんなに深刻に悲しむのもありかと。同じ曲とは思えない。飲み込まれるような巨大さ。世界が、人生がこの音楽で満たされるような妖しい力。
サヴァールとチェリビダッケ、どっちがいい、どっちがすごい、みたいな話にはしたくない。近所で行われる簡素な葬儀でも、イギリスの女王みたいな豪華な葬儀でも、どっちが正しいなんてものではないでしょう。
いいんですよ、自分の信じる音楽をやれば。そこにウソがなければ。ほかの誰も表現していない何かがあればなおのこと。
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月刊誌「レコード芸術」が、今発売されている号で休刊になるという。休刊というのは言葉のあやで、休むだけなら表紙に「71年間ありがとうございました」とは記すまい。雑誌を止めるときには「廃刊」ではなく「休刊」と言うのが慣例である。だから、「レコード芸術」がまもなく「休刊」するというニュースを聞いたときには、私もちょっと驚いた。雑誌媒体はどこも苦労している。音楽之友社の経営が難しいこともとっくの昔から知られている。「レコ芸」がそれでも続いているのは、それなりに成り立っているからなのだと何となく思っていたが、そうではなかったようだ。
1980年代、つまり私が音楽の文章を書き始めたころ、音楽之友社の社員たちは鼻息が荒かったですよ。いや、それは言い過ぎ。特に力まなくても、自分たちが音楽業界のまんなかにいると、当たり前に思っていた。もちろん周囲も。メジャー・レーベル、新聞社、放送局(言うまでもなく、特にNHK)、音楽之友社、これが業界の大枠をがっちり固めていた。そんな体制が揺らぐなんて、私が20代のころにはなかなか想像できなかった。だけど今や・・・見た目重視のスター路線が続き、放送局や新聞の権威も地に落ちた。
時代は移り行く。予想もしなかったことがどんどん起きる。20代のころ読んだ本の中で、人間は自分の意志で歴史を作り出すことはできないと読んで以来、そういうことだよね、意志では作れないほど、世界は複雑だし、予想外だと何回思ったかわからない。
自明なことは、今自明なだけ。すぐれたものが後世に残るとも言えない。すぐれた人物が長生きするわけでもない。雑誌を存続させるために署名だなんて、気持ちはわかりますよ、だけど無理。むりやり蘇生させようとするようなもの。過ぎ去っていくものよ、安らかに眠れ。思い出は、残る。その思い出とて、永遠ではないが。万事に関して、それしかないんじゃないか。
あまり長く書くとややこしくなるから、ごく簡潔に。たまたま手にした無料の広告誌(と呼ぶべきなんだろうね)の「ぶらあぼ」で城所孝吉氏が「我々の趣味趣向が磨かれなくなる」と書いていた。まさにその通り。大筋では。だけど同時に、そりゃ、マニアならたぶん誰でも言いたいですよ、評論家の耳だって怪しいものだし、お金で買収されたりはしなかったのかと。けれど、個別的な話はさておき、全体的に見るなら、雑誌媒体は非常に啓蒙的で教育的(皮肉のニュアンスも混ぜたくなるけれど、今はそれはパス)だった。城所氏は「演奏の特色が言語化されなくなった時、演奏を聴き分ける能力は、確実に下がってゆく」とも記している。これまた言いたいことはわかるけれど、現実として私はそこまでは言いません。

サヴァールはモーツァルトの「レクイエム」をすでに録音していた。初めて聴いたときには、あまりの軽やかさに驚いたものだ。イギリス系の古楽みたいにリズムや音が軽いのではなく、精神が軽い(軽薄ということではない)感じに、へえと思わされた。新録音もそれは変わらない。いい演奏、いい音楽。透明感のある響きが、単なるきれいな音ということではない。劇的な部分は小編成でも十分以上の迫力、迫真性。コントラストも明快。和音ひとつで、がらりとシーンが変わる。昔の人には想像できなかった演奏だろう。
私も還暦が近づいてきた。若い時は、他人の死が何だか現実とは感じられず、だけれどもむやみとこたえたものだった。ところが気が付くと、死に慣れてしまった自分がいる。もう私がお世話になった先生方もほとんどみなこの世にいない。父親はもう死んだし、母親も遠からず死ぬ。人は必ず死ぬのだ。私だって案外早く死ぬかもしれない。存在するものは、いつか消えるのだ。カミュが書いたように、われわれはいつ「今日執行する」と告げられるかわからない死刑囚のようなものだ。そう考える現在、サヴァールの軽さやしんみりとはしても深刻にならない音楽がしっくりくる。
昔は名演奏家が死ぬとやたらにショックを受けたものだった。世界が貧しくなったように感じた。国内外のメディアも「ひとつの時代が終わった」みたいな書き方をする。だが、世界は続いていく。これを私に痛感させたのは、ヨーロッパの聴衆だった。彼らは、巨匠が没すると嘆くし、名指揮者がオペラやオーケストラのポストを退くとき、本当にもったいない、もっと続けばいいのにと言う。だが、次の週にはもう新しい演奏家に拍手を送っているのだ。クライバーやチェリビダッケやアーノンクールに熱狂した人たちも、彼らの死後に音楽を聴くのをやめたりはしなかった。そうやって歴史は続いてきたし、音楽は続いてきたのだ。
だから、私は死を過剰に嘆き悲しむことはしない。いつの時代にもいいもの、おもしろいものはありますよ。そして、新しいものが生まれているのですよ。
「レコード芸術」がなくなったらどうする? 何か新しいことをするのです。それはあなたや私、つまり今を生きている人間がするのです。

しかしですね、サヴァールの「レクイエム」のあとでチェリビダッケとミュンヘン・フィルの演奏を久々で聴いてみて、強烈な衝撃を受けた。すげえ、そうかこんなに深刻に悲しむのもありかと。同じ曲とは思えない。飲み込まれるような巨大さ。世界が、人生がこの音楽で満たされるような妖しい力。
サヴァールとチェリビダッケ、どっちがいい、どっちがすごい、みたいな話にはしたくない。近所で行われる簡素な葬儀でも、イギリスの女王みたいな豪華な葬儀でも、どっちが正しいなんてものではないでしょう。
いいんですよ、自分の信じる音楽をやれば。そこにウソがなければ。ほかの誰も表現していない何かがあればなおのこと。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)



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